*隠岐島前神楽番組説明

神途舞(かんどまい)
式の神楽 前座の舞の一つ。島前神楽は「寄せ楽」という楽だけの演奏から始まり、「前座の舞」という素面の舞の一連が続く。次第としては最初の舞である。左手に榊、右手に扇を持って男一人で舞う。神楽歌にも「ここも高天の原なれば、集まり給え四方の神々」とある様に斎場の祓いと共に神を招く舞である
幣帛舞(ぬさまい)
式の神楽 前座の舞の一つで散供(さんぐう)とも呼ばれている。左手に御幣、右手に鈴を持って舞う。散供とも呼ばれるように、舞の中で五方に米をまく所作がある。この舞のいま一つの特徴は「・・○○神社祭礼に奉納するもの也・・」というように、舞人が口上で神楽奉納の主旨を述べる事にもある。いずれにせよ、前座である素面の舞は以後現れる神達の場を清める役目を果たす
先祓(さきばらい)
儀式三番の能の一つ。天孫降臨の神話、猿田彦大神天孫を迎える故事による能で、島前神楽においては一番最初に現れる神(面をつけた舞い)なので「一番だて」ともいう。猿田彦は「おお吾は是れ八重のちまたにすむ猿田彦大神なり、我先だって悪魔祓わんその為に神体ここに現れたり」と言立、早拍子に変わる。後には扇の舞に移って、とにかく最も派手見せする舞である
随神(ずいじん)
儀式三番の能の一つ。随神(豊間戸奇間戸神)と邪神が戦った末、邪神を退散させるというストーリー、「八幡」ともいう。島前神楽では善神は白面、邪神は黒面をつける傾向があり、見物人は詳しく物語が解らなくとも、明らかな勧善懲悪なので老若男女すべてに解りやすい舞である。なお、面を着けた舞である神はすべて打杖(うちづえ)と呼ばれる二尺ほどの竹の両端に紙をばらして巻き付けた採物を持って舞うのも、島前神楽の特徴である。
恵比須(えびす)
式外の神楽の一つ。海に囲まれた隠岐島では昔から漁業が盛んであり、その勢もあって美保神社の恵比須さまの信仰も篤い。その恵比須さまが主役の舞である。打杖を竿に見立てて先にひもをたらし、最後には鯛を釣りあげるという舞。写真の左下にいる見物人がひもの先を掴んで鯛の役目を果たしている。島前神楽では珍しく見物人との掛け合いが見られる舞である
切部(きりべ)
式外の神楽の一つ。戦の神である建雷之神が戦の話を胴の曲打ちで語る舞である。しかし、この部分は市切部(いちきりべ)という二人舞の能の後半部分でもある。市切部では先ず舞の名人である木花佐久夜姫が現れて舞を見せ、それに対して建雷之神が戦の話を胴の曲打ちで応えるというものである。切部は島前神楽では珍しく胴の曲打ちで名人芸を見せる能であり、この場面が来ると誰しも拍手を送りたくなる
八重垣(やえがき)
本来は葬祭の能であるが、現在は一部改作されて式外の能として舞われている。八重垣は「八街の大蛇」の神話に因んで素戔嗚尊稲田姫、翁、大蛇(おろち)の物語である。出雲・石見神楽の様に大蛇がリアルでもなく、また見物人との掛け合いやハプニングも起こらない型どおりの能である。型どおりの能は島前神楽の特徴でもあり、その辺は他の神楽の「大蛇退治」と比較すると解りやすい。もう一つの特色は島前神楽の大蛇は終始暖簾から出ずに中腰のまま舞うことでもある。
舞い児(まいこ)
神子神楽の一つ。神子舞は神楽の一演目として舞う「本格式」と、神社の祭典の中で舞うもの、「舞い児」と称して一才未満の幼児を抱いて舞う三種がある。祭典の中で舞うものと「舞い児」は、本格式を簡略にしたものであり、舞う時間も少ない。「舞い児」は主として次の朝行われる「朝神楽」で舞われ、児童の健康を祈願するものである。
神戻し(かんもどし)
島前神楽は「寄せ楽」という楽だけの演奏から始まったのであるが、最後にも「神戻し」といって楽だけで終わる。始まりの時刻は夏の時季なのでまだ薄暗さが残っているが、全番組が終わる頃には深夜に至り、見物人も足早に去っていく。なお、楽だけで、御輿に供奉する事を「道中神楽」といい、隠岐島前の例大祭には欠かすことの出来ない音の祭気分を醸し出している。

島前神楽動画You Tube
http://jp.youtube.com/profile?user=takuhisan

*平成20年焼火神社例祭の「島前神楽」

今年の島前神楽は、平成20年7月23日に催行されます。
場所は焼火神社(焼火山駐車場から徒歩20分。懐中電灯が必要です)

時間は午後7:00から直会
8:00から祭典(祭典時に巫女舞(みこまい)
9:00から社務所にて「隠岐島前神楽」奉納

1)幣舞(ぬさまい)
2)巫女舞(みこまい)
3)先祓(さきばらい)
4)随神(ずいじん)
5)湯立(ゆだて)※湯立は、時間の都合により、取りやめの可能性があります。
終了は午後11:00の予定
http://www.lares.dti.ne.jp/~takuhi/kagura/kagura.html

平成20年7月26日
場所  隠岐知夫村郡(こおり)一宮(いっくう)神社
時間  午後7:30から
神途舞(かんどまい)
巫女舞
幣帛舞
先祓
切部(きりべ)
恵比須(えびす)

隠岐汽船の事

隠岐汽船

 隠岐汽船に乗り、あかぬけた風貌なので観光客かと思いきや、すぐに毛布と枕をとり出して場所を確保する仕草をみると、ああ帰省か、と納得させられる。今ではフェリーで二時間半もあれば島に到着するのだが、それでも「船内で寝る」という風習は抜けないらしい。隠岐汽船に乗るというのは島民にとっては、移動を楽しむのではなく、日常の乗り物として定着しているのであろう。こんな風景も明治一七年(一八八四)に隠岐汽船が発足してから生まれた。
 この隠岐汽船発足の実現にあたり、西ノ島町焼火神社の松浦斌(さかる)が最初の引き金を引いた。明治一七年、初代隠岐郡長 高島士駿(たけと)が島根県に対し隠岐定期航路開発を提言し、それを受けて隠岐四郡連合会が開会されて汽船購入による航路開発が提案された。しかし、圧倒的に反対意見が多く、危うく廃案となるところ、斌が「私が半分負担する」という発言により、隠岐四郡連合会と斌が共同出資で、負担は斌が負うという条件で提案は可決された。この横紙破りとも思える強引な行動は、三二歳という若さのなせるわざでもあった。
 松浦斌は嘉永四年(一八五一)八月二十二日焼火山当主に生まれた。当時、焼火山は神社というより、真言宗雲上寺の住職という意味合いが強く、斌も幼少の頃から僧侶の修業に渡海していた。しかし、父親の死により、慶応二年(一八六六)十六歳で十七代目の雲上寺住職となった。明治寸前の隠岐島は、隠岐騒動など激動の時代を迎え、排仏毀釈に至って雲上寺は存亡の危機に立たされる。明治二年(一八六九)、ついに斌は一九歳で雲上寺を廃し、焼火神社へと変身することによって焼火権現を残した。
 焼火権現は往古より海上安全の神として、主に北前船の舟人に信仰されていた。現在もある灯籠には、北は秋田から西側は熊野まで奉納が記録されており、諸国名所図絵などの版画では葛飾北斎安藤広重は焼火権現を描いている所をみると、江戸にまでその信仰は広がっていたものと思える。そういう意味では焼火と船は古くから縁があったのであろう。斌は自分でも帆船を数隻所有していたと伝えられている。
 明治一七年の決議により、一二月に速凌丸(はやぶさまる)、九十六トン・二十馬力を一万六千五百円で購入。明治一八年(一八八五)二月、月に三〜五航海、乗客は片道十五人程度で隠岐・美保関・境港を就航することになった。しかし、運営はうまく行かず、私財の山林を売り払って維持に努めた。その苦労もあってか、斌は明治二十三年(一八九〇)一月二七日、三八歳でこの世を去ることになる。
 後に隠岐島民は斌の意志を引き継いで、明治二十八年(一八九五)隠岐汽船株式会社創立し、今に至っている。
 島の近代化をうながす、隠岐と本土を結ぶ定期航路は、松浦斌がいなくとも遅かれ早かれ実現する事業ではあったろうが、激しい個性の持ち主が牽引して果たされるというのが、いかにも「激動の明治」という時代を彷彿とさせる。
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato071.htm

隠岐島の歴史年表

隠岐島と言っても主に西ノ島町を中心にした年表です。
西ノ島町誌 西ノ島の今昔』の年表部分をデジタル化したもので、それに2005年までのものを追加しました。以下のファイルはタブ区切りですので、表計算・データベースで取りこめるようになっています。
http://www.lares.dti.ne.jp/~takuhi/folder/nenpyo.txt
ただのHTMLで表示するだけなら、http://www.lares.dti.ne.jp/~takuhi/にあります。

翁の消滅

(2000/01/28)
 十万分の一の縮尺地図には載っていない、また、マスコミには一度も登場した経験のない様な小さな集落で葬儀が行われた。八十才を過ぎた長寿を全うしたのだから、近い親類以外には特別に悲しみに浸るという雰囲気でもなかったのだが、妙に周りの老人達が活き活きと見えた。この活き活きとした目は祭や法事の時にも感じられる。知り合いである故人の死自体は寂しさや悲しさを伴っても、それでもどこか「ここが本番」とキビキビとしている。
 彼ら老人達は今や日常では現役を退き、悠々自適の生活に満喫しているはずであるが、冠婚葬祭の時ほどには活き活きとしてはいない。最近は少なくなった三世代家族の中では子や孫にまで疎んじられ、核家族なら隠居所帯として若い世代と離されている。しかし、三世代家族や隠居所帯ならまだ、同じ地域に共に暮らしてかろうじて家族が交流しているのであるが、老人ホームとなると、もはや地域社会からも隔離された集団として老人世代はある。
 若い世代にとっての重要関心事は仕事や生活様式などの日常生活であり、それ以外の冠婚葬祭はいわば世間の逆風をまともに受けないための最低限の処世術なのである。老人達が仕事や生活様式などの日常を重視しないという事ではないが、その場から徐々に離された結果、後に残った冠婚葬祭に活き場を求めたのではなかろうか。冠婚葬祭にはまだ古い世代の仕来りが残されており、そういう意味では老人は十分なキャリアやノーハウを持っているといえよう。
 日常生活でのキャリアやノーハウは急激に陳腐化し、ある意味で変わり身の速さを賞賛されるとなると、もはやキャリアはお荷物となる。終身雇用や年齢階梯制度は比較的ゆっくりと流れる時代に即したものであったが、現代の産業社会では一生同じ仕事に従事するという領域が狭められてきた。仕事で活き活きとした老人を見たのは、文化財を補修する設計管理者や技術者達に出会った時であった。彼ら長老は業界の中で若者から、技能を認められ尊敬されている。その技能は圧倒的なキャリアに裏付けられて現役である。しかし、こんな伝統業界は今や希少価値とさえいえる。
 一般的には古い技能の持ち主は、年は若くても「頭が固い」とか「年寄り」と呼ばれてやさしく排除される。その逆の意味合いを込めて「若さ」が過剰に持ち上げられて、選挙まで「若さ」をウリにする。年齢としての若さが常に新しい技能・専門知識やビジョンを身につけている訳ではないが、その内容を問わず「若さ」という看板は世間に受け入れられやすい。平成の時代、過剰な評価をされた「若さ」と引き替えに「老い」は福祉の対象とされた。
 昭和時代のほとんどを費やして日本中を歩いた民俗学者宮本常一は、民俗調査の聞き取り相手の老人を、又格別の感慨を以て記している。彼が選んだ老人はムラの中で特別に注目をあびたり業績を残した人々ではなかったかもしれないが、彼の名文に乗せられてついつい好ましい老人像を描いてしまうことになる。ゆっくりと流れる時間を基本とする伝統社会の中で、冠婚葬祭のみに目を光らせる老人像ではなく、日常生活に余裕を持った老人の人柄を長老として見た宮本は、「翁」と名付けている。
 平成の時代、宮本常一の言う「翁」は多分いない。翁をあらしめる社会状況が無くなったからである。この分で行くと私も間違いなく翁にはなれない。老醜とは呼ばれても。
神社新報

ソフトな試み

(99.7.14)
 学生のころから十年ほど過した東京を後にして国に帰った時はまだ三十そこそこであった。神社の荒廃を見る度に力こぶを入れるほど元気でもあった。その勢いを当時の流行言葉で「地域の活性化」に向けたのである。回りくどい様な理屈でもあるが、神社の発展は地域の発展に左右される部分が多いので、先ずは地域から、と色々なイベントを企画した。私に産業・経済の発展に寄与する力量があるわけでもないので、せめて文化方面で貢献できないものだろうかと漠然と考えていた。
 折りも折り、竹下首相の「ふるさと創成事業」が全国に施行され、我が町でも御多分に漏れず基金の使い道のアイデア募集がはじまった。この機会を逃してなるものかと、手唾をはいて友達と二人で「ふるさとネットワーク事業」という企画書を提出した。
 内容は

  1. 出郷者の名簿作成、調査=データベース作成
  2. 地元の色々な情報収集(情報誌の情報と、資料館の情報) データベース作成
  3. 情報誌の発行(町民に対しても、出郷者に対しても)内容(両方向雑誌)結婚、死亡、誕生、島で起こった最近の出来事、イベントの紹介(祭り、盆、イベント等のスケジュール)研修、ふるさと学校等のスケジュール。
  4. コンピュータ通信ネットワークの開設(発信、受信)
  5. ふるさと林間、臨海学校の開設(町内の児童と出郷者の児童が一緒に)
  6. ふるさと宅配便(特産物の出荷)
  7. 空き家の管理、維持を組織的に行う
  8. 墓の維持、管理を組織的に行う。
  9. 祭り、盆などの伝統行事に参加させる。例えば七、八月にかけて帰省を募る。(神輿の担ぎ手、盆踊りの踊り手が多くなることは、地元の人にとっても有益と思われる)
  10. 出郷者の郷土会は地元で行う。
  11. ふるさとチャーター便(汽船のチャーター)
  12. ふるさとデジタル情報館の開設(歴史、文化、自然、産業その他)
  13. 研修事業の開設

 右の企画は「ふるさと」というキーワードを介して地域の内と外を結ぶ人的交流を活性化するのが目的であった。しかし、地元にとっての「地域の活性化」とは産業の活性化を目指し、単純化すれば経済の発展を目指していたのである。経済的には入より出が多いこの企画は不人気で、それに比べて大手広告代理店の企画書は、一瞬でも田舎が輝きを見せる夢を与えた。
 こうしてお蔵入りした「ふるさとネットワーク事業」は商工会というルートを経由して、平成三年に国と県の補助金で部分的に復活した。「隠岐国(おきのくに)」という情報誌の発刊である。一、出郷者の名簿作成 。二、地元の色々な情報収集。三、情報誌の発行。の三項目だけは現実のものとなった。「ふるさとネットワーク事業」といっても一番苦労のいる出郷者の名簿作成はすべて商工会の職員が受け持ち、情報誌の記事は編輯部と称して五・六人で寄り集ってどうにか創刊号は出来上った。この時、情報誌のモデルとなったものは、昭和十一年から四年間発刊された小冊子である。これは町の全青年団が各集落毎にページを受け持ち、ムラの出来事を事細かく出郷者に送ったのが殆どの内容である。「隣の○○屋のおばあさんは最近腰が弱って、お堂にも来なくなった」とか「名物の○○松が枯れてしまった」など、ローカル色豊かとい域を超えて、そこの集落内部の人にしか理解できない超ミニコミ誌であった。現在の我々はとてもここまで真似る事はできない。しかし、「隠岐国」は 出郷者に大反響を得たのである。約四千五百部発送し、励ましの便りが六百通届けられた。この反響を見て、ようやく地元も本腰を入れ、今年で九号を発行するにまで至った。
 「隠岐国」には地元の伝統的な情報が多くしてある。都市の出郷者は古いものがお好みらしい。
神社新報

「ふるさと」の行方

(98.10.5)
 盆が過ぎたころから気温と共に田舎は寂しくなってくる。地元の住民にとっては日常に返るだけであるが、祭りの後と同様の心持ちになる。盆の宗教的主旨は別にして、八月十三日から十五日にかけては「ふるさと祭」と銘々してもよさそうな情況が繰り返されている。
 「ふるさと」は、一般的に生まれ育った地域とそこでの人間関係を基本にして、しかも、現在はそこに在住していない人に発生するイメージである。地域の景観、方言、郷土料理、伝統的行事、同級生など、五感を動員して形成され、しかも変わらない事が良しとされた外からの希望をかなえる小ユートピアと言い換えてもいいのかもしれない。一方地元では日々都市化を目指して地域景観を変え、方言は世代によって見る影もなく、家庭料理は和・洋・中が混在し、伝統行事も簡略化され、同級生の旧姓は同窓会の折りの役者名としてのみ生き残っている。現実には全て変化しているのだが、都市住民から見ればその変化はわずかであり、加えて「ふるさと」に入る時は「ふるさと」メガネをかけているので変化部分は見えにくくなる。
 そんなに良い「ふるさと」であれば永久帰省してもよさそうであるが、隠岐島などでは現実的には就職の口が少なく、もしあったとしても、伴侶の反対にあってかなり永久帰省率が低い。昭和十二年から昭和五六年までの中学卒業生名簿から帰省率を見てみると、約三分一が地元に帰っていることが判明した。逆に言えば三分二が出郷者である(中学もしくは高校を卒業して島を出る確率は九八%)。具体的にはこの出郷者にとって有効なコンセプトが「ふるさと」であり、彼らが故郷を離れた場所で郷土会を結成したり、盆に帰省する核になる。仮に彼らを「ふるさと」一世と呼ぶなら、その子供達は二世、孫は三世となる。帰省は一般的に家族単位で行われるので、各世代にとっての「ふるさと」体験は自ずからスタンスが異なってくる。もはや三世にとっての「ふるさと」は希薄となり、「ふるさとに帰る」という言葉が現実味を帯びたものとは解されない。平成十年には都市住民は全人口の三分二を越え、次第に一世より二世・三世の割合が増えてくる。一世にとって懐かしく親しい「ふるさと」は下の世代にとっては敷居の高い地域になる。二・三世は都市に生まれ育ったからである。
 では、都市は「ふるさと」になれるであろうか。都市では変化が恒常化しているので、景観、人間関係の変化日常化している。そういう地域では逆に旧来の絆や伝統から解放され、ある意味で自由と感じられた経緯がある。二・三世にとって生まれ育った環境がその様なものであるとすれば、一世の感じた開放感はない。その代わりにといおうか逆にといおうか、彼らは新たな絆を求めている。一世にとって敷居の低い「ふるさと」は彼らにとって絆の代わりにはならない。彼らにとっては狭い世間であるプライベートな仲間や新興宗教、サイバーコミュニティーパソコン通信やインターネット上での仲間)の方がはるかに敷居が低くて親しみやすく絆造りのしやすい共同体と感じられている。もはや「ふるさと」は二・三世には必要性のないコンセプトとなる。
 田舎にとって一方通行の人口流失は恒常的に「ふるさと」一世を生み出すが、それも過疎化・高齢化率と反比例して徐々に割合が少なくなりつつある。我々「ふるさと」管理人はせめて地元に思い入れをしてくれる一世に対して積極的に対応し、観光「ふるさと」を演出する劇場を作り上げて行くしかあるまい。
神社新報