隠岐汽船の事

隠岐汽船

 隠岐汽船に乗り、あかぬけた風貌なので観光客かと思いきや、すぐに毛布と枕をとり出して場所を確保する仕草をみると、ああ帰省か、と納得させられる。今ではフェリーで二時間半もあれば島に到着するのだが、それでも「船内で寝る」という風習は抜けないらしい。隠岐汽船に乗るというのは島民にとっては、移動を楽しむのではなく、日常の乗り物として定着しているのであろう。こんな風景も明治一七年(一八八四)に隠岐汽船が発足してから生まれた。
 この隠岐汽船発足の実現にあたり、西ノ島町焼火神社の松浦斌(さかる)が最初の引き金を引いた。明治一七年、初代隠岐郡長 高島士駿(たけと)が島根県に対し隠岐定期航路開発を提言し、それを受けて隠岐四郡連合会が開会されて汽船購入による航路開発が提案された。しかし、圧倒的に反対意見が多く、危うく廃案となるところ、斌が「私が半分負担する」という発言により、隠岐四郡連合会と斌が共同出資で、負担は斌が負うという条件で提案は可決された。この横紙破りとも思える強引な行動は、三二歳という若さのなせるわざでもあった。
 松浦斌は嘉永四年(一八五一)八月二十二日焼火山当主に生まれた。当時、焼火山は神社というより、真言宗雲上寺の住職という意味合いが強く、斌も幼少の頃から僧侶の修業に渡海していた。しかし、父親の死により、慶応二年(一八六六)十六歳で十七代目の雲上寺住職となった。明治寸前の隠岐島は、隠岐騒動など激動の時代を迎え、排仏毀釈に至って雲上寺は存亡の危機に立たされる。明治二年(一八六九)、ついに斌は一九歳で雲上寺を廃し、焼火神社へと変身することによって焼火権現を残した。
 焼火権現は往古より海上安全の神として、主に北前船の舟人に信仰されていた。現在もある灯籠には、北は秋田から西側は熊野まで奉納が記録されており、諸国名所図絵などの版画では葛飾北斎安藤広重は焼火権現を描いている所をみると、江戸にまでその信仰は広がっていたものと思える。そういう意味では焼火と船は古くから縁があったのであろう。斌は自分でも帆船を数隻所有していたと伝えられている。
 明治一七年の決議により、一二月に速凌丸(はやぶさまる)、九十六トン・二十馬力を一万六千五百円で購入。明治一八年(一八八五)二月、月に三〜五航海、乗客は片道十五人程度で隠岐・美保関・境港を就航することになった。しかし、運営はうまく行かず、私財の山林を売り払って維持に努めた。その苦労もあってか、斌は明治二十三年(一八九〇)一月二七日、三八歳でこの世を去ることになる。
 後に隠岐島民は斌の意志を引き継いで、明治二十八年(一八九五)隠岐汽船株式会社創立し、今に至っている。
 島の近代化をうながす、隠岐と本土を結ぶ定期航路は、松浦斌がいなくとも遅かれ早かれ実現する事業ではあったろうが、激しい個性の持ち主が牽引して果たされるというのが、いかにも「激動の明治」という時代を彷彿とさせる。
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/1_all/jirei/100furusato/html/furusato071.htm