空気の芸能

 空気の芸能(99.9.24)

 島根県の沖合いにある隠岐島、西ノ島では七月中旬から末にかけて各集落毎に例大祭が執り行われる。集落の大小によっても異なるが、これらの夏祭りでは隔年毎に大祭(おおまつり)小祭(こまつり)と称して、大祭では神輿渡御が欠かされず行われている。その大祭では神輿渡御に加えて神楽が奉納される。
 神楽は島前(どうぜん)神楽といい、戦前までは島前地区一円で催されていた。現在は島前神楽保存会として島前各地の有志が集まってこの神楽を伝承している。しかし、昭和四十年頃までは保存会組織ではなく、社家(しゃけ)と呼ばれて神楽を生業とするいわばプロの集団のみで伝えられていた。
 さて、この神楽は常設の神楽殿で舞われるのではなく、その都度、神社の境内や御旅所付近に舞処二間四方、楽屋二間四方の舞台として組み立てられ、神輿渡御が終わってから開始される。
 神楽が神輿渡御の後になるというのは、渡御の折りに道中神楽と称して御輿に供奉して神楽の楽が演奏されるからである。すなわち、御輿が納まらないと神楽の舞が始まらないのである。西ノ島の御輿渡御は夕方から始まるので、それが終わると真っ暗くなり、深夜に至るまで数々の番組が続けられる。
 こんな神楽を私は四十年以上見てきた。特に神楽に関心があって意識的に見てきた訳ではない。子供の頃は夜が更けると眠くなり見物席で寝たり起きたりして夢うつつながらその場に浸っていたという状況が正確であろう。地元の見物人にとって、それは決して特殊ではなくごく一般的な状況であった。
 しかし、それが繰り返されると祭の雰囲気を担う重要なファクターになってくる。文化人類学者の岩田慶治流に「強いられ、繰り返された結果、悟らされた」とでもいおうか。地元の人々のほとんどがこの雰囲気を共有した時、神楽は祭の空気になる。空気は既に面白い面白くないという評価対象の埒外である。隠岐でもすべての伝統芸能が伝承されている訳ではないが、空気化した芸能は持続している。地域の伝統芸能を支える核心は、伝統を守らなければならぬという義務感ではなく、地元民にとって胸騒ぎするような 空気ではなかろうか。空気を巻き起こす中心は御輿であったり神楽であったりするのだが、こんな時にはそれに身近に関わる人々はある種のスターとなり、さすがのルイ・ヴィトンも神紋のハッピの前に色あせて見える。
 従来の芸能研究では広い視野から比較され、分類や歴史的考察がなされてきたが、地元の空気という重要な一点が欠けている。逆に言えば旅人の視点のみを研究とされてきたのである。もしかしたらこのような空気を文字で表現するという事は、研究対象としては不適切なのかも知れない。
 我々がどうしようもなく時代に捕らわれる様に、どうしようもなく地域に捕らわれた人々によって地域の伝統芸能は支えられて来た。島前神楽で素面の舞が終わって能面の番組が始まり、最初に現れるのが先祓(さきはらい)。「おお吾は是れ八重の街(ちまた)にすむ猿田彦大神なり、我先立って悪魔祓わん其の為に神体ここに現れたり」と言挙げる時の雰囲気は、解る人には解るが、解らない人には解らないだろう。

焼火神社宮司 松浦道仁
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