歴史の痕跡

takuhi2007-03-22

 焼火山の登山道脇には今でもお地蔵さんが見られる。これは旧参道には一丁毎に奉られており、一種の一里塚の様な役目を果たしていた。波止からは十八丁、大山からは二十一丁となっていたようである。ただの目印というより、この地蔵は焼火信仰の歴史に深く関わってきた痕跡ともいえよう
 よく見ると焼火地蔵は首が欠けている物が多い。島の古い習俗で、婚家にムラの若者が島中の地蔵を運び込んで祝うと共に酒をねだって、元の場所に返してもらうという「祭遊」渾然一体となった行事でもあった。だから、その運ぶ時の事故で首が欠けたという訳ではない。
 焼火権現は明治まで神仏神仏混交(神も仏もどちらも祭っている信仰形態)であった。というよりも行政制度上では雲上寺(うんじょうじ)という真言宗の寺院の面が前に出ていたという方が正確な言い方かも知れない。雲上寺の本地仏地蔵菩薩であった。そういう経緯で焼火参道には多くの地蔵が安置されていたのである。
 ところが、明治元年に「神仏判然令(はんぜんれい)」が達示された。これは寺院を廃止せよというものではなく、神仏混交の寺院、神社に対して神社、寺院のいずれかに決めよ、というものであるが、これを隠岐では廃仏(排仏)と解して行動に移した。島前は島後ほどには過激では無かったが、それでも明治十年以降に再興をみるまで隠岐の寺院は全て消滅したのである。以後、焼火権現は焼火神社を表看板として生き残ったが、その片鱗を首無し地蔵に留めている。隠岐島の信仰にとって負の歴史ではあるがここに記しておこうと思う。