翁の消滅

(2000/01/28)
 十万分の一の縮尺地図には載っていない、また、マスコミには一度も登場した経験のない様な小さな集落で葬儀が行われた。八十才を過ぎた長寿を全うしたのだから、近い親類以外には特別に悲しみに浸るという雰囲気でもなかったのだが、妙に周りの老人達が活き活きと見えた。この活き活きとした目は祭や法事の時にも感じられる。知り合いである故人の死自体は寂しさや悲しさを伴っても、それでもどこか「ここが本番」とキビキビとしている。
 彼ら老人達は今や日常では現役を退き、悠々自適の生活に満喫しているはずであるが、冠婚葬祭の時ほどには活き活きとしてはいない。最近は少なくなった三世代家族の中では子や孫にまで疎んじられ、核家族なら隠居所帯として若い世代と離されている。しかし、三世代家族や隠居所帯ならまだ、同じ地域に共に暮らしてかろうじて家族が交流しているのであるが、老人ホームとなると、もはや地域社会からも隔離された集団として老人世代はある。
 若い世代にとっての重要関心事は仕事や生活様式などの日常生活であり、それ以外の冠婚葬祭はいわば世間の逆風をまともに受けないための最低限の処世術なのである。老人達が仕事や生活様式などの日常を重視しないという事ではないが、その場から徐々に離された結果、後に残った冠婚葬祭に活き場を求めたのではなかろうか。冠婚葬祭にはまだ古い世代の仕来りが残されており、そういう意味では老人は十分なキャリアやノーハウを持っているといえよう。
 日常生活でのキャリアやノーハウは急激に陳腐化し、ある意味で変わり身の速さを賞賛されるとなると、もはやキャリアはお荷物となる。終身雇用や年齢階梯制度は比較的ゆっくりと流れる時代に即したものであったが、現代の産業社会では一生同じ仕事に従事するという領域が狭められてきた。仕事で活き活きとした老人を見たのは、文化財を補修する設計管理者や技術者達に出会った時であった。彼ら長老は業界の中で若者から、技能を認められ尊敬されている。その技能は圧倒的なキャリアに裏付けられて現役である。しかし、こんな伝統業界は今や希少価値とさえいえる。
 一般的には古い技能の持ち主は、年は若くても「頭が固い」とか「年寄り」と呼ばれてやさしく排除される。その逆の意味合いを込めて「若さ」が過剰に持ち上げられて、選挙まで「若さ」をウリにする。年齢としての若さが常に新しい技能・専門知識やビジョンを身につけている訳ではないが、その内容を問わず「若さ」という看板は世間に受け入れられやすい。平成の時代、過剰な評価をされた「若さ」と引き替えに「老い」は福祉の対象とされた。
 昭和時代のほとんどを費やして日本中を歩いた民俗学者宮本常一は、民俗調査の聞き取り相手の老人を、又格別の感慨を以て記している。彼が選んだ老人はムラの中で特別に注目をあびたり業績を残した人々ではなかったかもしれないが、彼の名文に乗せられてついつい好ましい老人像を描いてしまうことになる。ゆっくりと流れる時間を基本とする伝統社会の中で、冠婚葬祭のみに目を光らせる老人像ではなく、日常生活に余裕を持った老人の人柄を長老として見た宮本は、「翁」と名付けている。
 平成の時代、宮本常一の言う「翁」は多分いない。翁をあらしめる社会状況が無くなったからである。この分で行くと私も間違いなく翁にはなれない。老醜とは呼ばれても。
神社新報