祈祷の神楽

takuhi2007-02-13

(03.3.11)
 島前神楽は現在、島前地区の有志によって保存会組織として伝承されている。しかし、この保存会は昭和五〇年以降の流れであり、以前は社家によって支えられていた。社家はもともとは神主家とは異なり、神楽を生業とする特別な家筋であった。今でこそ神社の祭礼に奉納するのが一般的であると思われているが、社家神楽の時代はそれ以上に祈祷のための神楽であった。小概説でも述べたように祈願の主旨が雨乞い・病気平癒等の場合を大注連神楽、大漁祈願等を浜神楽、葬祭を八重注連神楽というように主旨別の呼び名が特別にあり、また各神楽によって次第も定まっていた。つまり願主の希望によって構成が異なる祈祷中心の神楽といえる。
 この事は神楽場が原則的には常設ではないというより、臨時でなければならないというところにも表れている。神を勧請する斎場さえ設ければ、祈祷の主旨によってどこにでも設営可能という社家時代の形態を継承していると思われる。
 現在は廃止されている「湯の行事」と「注連行事」は、祈祷という意味では最も重要な行事であろう。記録や社家の伝承による「大注連神楽」の次第は、前座の舞(七座)から始めて儀式三番の能、次に岩戸の能、それが済むと中休みの夜食をとることになっていた。「大注連神楽」は夜に執行されることになっていたので、中休みの頃は十二時過ぎとなる。ついで「式外の能」を数番して終わると夜は明け始め、そこで小憩が入り、いよいよ「注連行事」となる。神子が主役のこの行事は、明治には神懸かりとして禁止された。神楽場の中に特別に祭壇を設け、神子が中央で右手に大麻幣、左手に榊を採って左右に祓うと俵に座し、後ろから幣頭(神楽のリーダー)が天蓋を上下させながら神楽歌を唱える。これに対して神子は神勧請詞を宣り、退散。昔はこの時に神懸かりに入ったという。神子が退散すると幣頭が願主に天蓋を渡し、最後に「月の輪かざし」という行事で終わる。
 社家神楽の時代が祈祷の要素を強く持ち、家伝秘伝として継承していた時は、僧侶・神主と並んで第三の宗教家の時代でもあった。島前神楽が現在も祈祷中心の神楽ならば、この部分が残っていなければならない。日本の芸能は何らかの意味でこのような要素を孕んでいたはずであるが、少しずつ信仰的要素が抜け落ちて今日に至っている。逆に芸能的要素が拡張されて伝承されているものもあるが、少なくとも島前神楽では芸能的要素を拡大せぬまま継承されたのが現況といえよう。今でも実質的に旧二社家が指導者となって伝承されている。
郷土出版社「島根県の神楽」